母校の新聞部が 廃部になっていたということを今日知った。
日本のみならず,世界でも新聞社が生きのびるのが大変な時代、ついに高校の新聞部までかと思ったが 理由はそれだけでなく1960年代の学園闘争も関係してるらしい。
その詳しい事情は まだ良く飲み込めてないが ともかく 母校では邪魔者扱いされていたわれらが新聞を70代になった創刊者たちが 高校に行ってひきとり DVD化した。
今日の集まりで そのDVDをおみやげに貰えるという。 DVD欲しさに はじめて新聞部の同窓会に出席した。
終戦直後のガリ版刷りの、触れば破けるような新聞から60年間分の紙面を 1枚1枚スキャンして DVD化したのは想像を絶する苦労だったに違いない。なのに それを無料で配ってもらえるという。 ただただ感謝。
会が、下町の高校らしく、3本締めで終了したのもなつかしい。高校生時代も なにかというと3本締めをやっていた。
帰ってきて ネットで 母校の学園闘争がどんなものだったか調べているうちに 、「プランゲ文庫」にわが新聞部の東叡新聞1947年9月の創刊号から16号までがはいっている事を発見した。高校生の作った 謄写版の粗末な新聞がアメリカで 60年も保存されていたとは。
今年のはじめ頃から私は、たまたま長崎の原爆関係で GHQの言論統制を 調べていたので、「プランケ文庫゙」の字は ぱっと目に入り、「えっ!」とおもわずクリックした。
「プランゲ文庫」は、占領下の日本で刊行された出版物の貴重なコレクションです。
日本は占領期の最初の4年間(1945年9月~49年10月)、連合国軍総司令部(GHQ)の厳しい検閲下に置かれ、新聞・雑誌・書籍・パンフレットなどあらゆる出版物が民間検閲所(CCD)に提出されていました。
この膨大な資料群の歴史的重要性を認めたゴードン・W・プランゲ博士(メリーランド大学教授で総司令部に勤務していた歴史学者。日米開戦のドキュメント「トラ・トラ・トラ」の著者としても知られる)の尽力により、検閲終了後資料はアメリカに送られ、メリーランド大学図書館に収蔵されました。
のちに「プランゲ文庫」と呼ばれるようになるこのコレクションは、雑誌13,783タイトル、新聞 約16,000タイトル、図書・パンフレット 約82,000冊、地図 640枚、新聞写真3,600枚、ポスター 90枚からなっており、資料の中には占領下の検閲の実態を知ることができるものがあるばかりでなく、今では日本でも見ることのできないものも数多くあります。
今日の集まりで 「GHQに ○○○と○○○が許可を求めに行った」 という話を聞いて、高校生の新聞まで検閲したのかと びっくりしたばかりだった。 紙の配給を受けるために必要だったという。
クリックを続けていくと文生書院 http://www.bunsei.co.jp/ で 一部だけでもコピー 販売することもわかった。 文生書院がプランゲ文庫をだすのは 資料が送られてきていて知ってはいた。が、その時は 「凄い」「高い」と思ったものだが、まさか わが上野高校の新聞がそこに含まれているとは想像もしなかった。
このプランゲ文庫のように 点でしかなかった事項が そこここでつながって線になり、 他人事だった事項が いつのまにか自分のそばにまできていたことに 気づかされることが 最近多くなった。
私は来週 久しぶりの旅行をする。1週間長崎に滞在。浦上をゆっくり歩く予定。 さらには友達の運転で 念願だった五島や外海にも行ける。
小岸昭の「隠れユダヤ教徒と隠れキリシタン」 を読んだのがきっかけで「マラーノと宣教師」に興味を持ち、いろいろ調べていくうちに 「カクレキリシタンと原爆・浦上の差別」 「少年使節と日本人奴隷」「 GHQによる永井隆 の言論統制利用」など 興味の対象はどんどん拡がっている。 長崎は今の私にとっていちばん興味ある場所になっている。